幸せに暮らすためにできること。英語と畑が自分と向き合わせてくれた。

北野陽子さん

大阪府生まれ。小学校の時にアメリカで1年半を過ごしてからずっと英語とともに暮らしている。就職やヨーロッパでの暮らしを経て、北欧家具メーカーにて店舗立ち上げなどを経験。余生は東京で生きてゆくと思っていたが、東日本大震災をきっかけに仙台に転勤になり、それを転機に地方創生の仕事をしたのち、大阪南部の田舎に戻る。現在は英語教室を主宰し、畑とともに穏やかに過ごしている。 Instagram:@kawachi_sunshine

https://kawachi-littlesunshine.com/

今の暮らし

自分が育ったところではなく、父の実家があった街に暮らし、個人で英語教室を主宰しています。そして頻繁には行けていないけれど、山間にある亡き父の実家の畑を耕して、細々と野菜や苺、裏山で原木椎茸を作っています。

出来るだけ自然な農法で、雑草堆肥でやり始めましたが、なかなか良い土は出来ず、大した量や種類の野菜は出来ていません。春から秋までずっと、草刈りがメインの作業のような感じ。それでも、ひたすら汗をかいて種を植えたら、何か食べられるものが出てきて、もし事業がうまく行かなくなっても、死ぬまでそれを繰り返せばなんとか生きていけるんじゃないかと実感しています。

午前中に農作業をして、17時ごろから21時くらいまで主に子供向けの英語のレッスンをするのが理想の一日。午前中に親子やシニアレッスンがあったり、グループレッスンもあれば、マンツーマンレッスンもあります。土日も働いていますが、1日の労働時間は、サラリーマン時代に比べて短く、幼児さんから大学生まで、子どもたちと英語で話す毎日が楽しく、全く苦になりません。

アメリカの現地校に放り込まれる

10歳の時に、企業で研究職をしていた父が博士号を取るために、家族でニューヨークへ渡りました。最初から1年半と期限が決まっていたので、日本語の補習校などへは行かずにいきなり現地の小学校へ放り込まれました。当時はみんな人種関係なく接してくれて、学校は平和で、子供ながらにアメリカは自由で寛容な国だなと感じていました。

5年生で日本に帰国してからも、キリスト教会でやっていた英会話クラスに通わせてもらい、高校生で1年間またアメリカに戻って、英語をほとんど不自由なく話すことが出来ていました。人生で自信が持てるものはずっと英語だけで、大学受験も就職も転職もそれで乗り切ってきたので、その機会を与えてくれた父には感謝しかないです。

そんな訳で、中学生の頃は漠然と、「将来は通訳か翻訳の仕事に就くかな」と思っていました。しかし、小中高とずっといじめやクラスメートからの疎外感があり、高2で学校に行かなかくなったことから、アメリカに留学させてもらうことになりました。

でも自由な国でも何もトラブルがないわけではありません。ホストファミリーと折り合わなかったり、学校でもシカトするグループがいたり、日本と変わらない経験をしました。その影響もあって、カウンセラーになりたいと強く思い、大学では教育心理学を専攻します。ただ、自分自身が課題を抱えたままで人を援助することなど出来ないと感じ、結局は英語を頼みにして、海外で仕事ができそうな電機メーカーへ就職をしました。

憧れだったヨーロッパと仕事

就職しても、ただ英語が出来るからと言うだけで希望していない部署に配属され、元々ビジネスに全く興味がなかったので、3年目には夜間大学院に行ってカウンセラーをまた目指そうと受験しましたが、落ちてしまいます。

そんな時に、ベルギーに転勤してみないか?と上司に持ちかけられ、ヨーロッパにはずっと住んでみたかったので、ほいほいとそっちに行ってしまいました。ベルギーでは、いろんな国をまたいで仕事ができたし、憧れのヨーロッパ各地を車で旅行してとても楽しかったです。そんな中、現地の人と出会って結婚もしました。

2年半後には夫と一緒に東京に戻って、同じ会社の仕事を続けていましたが、日本語が話せないカメラマンの夫が仕事を見つけるのは容易ではなく、自分がほぼ養う形となり、口論が絶えませんでした。早期退職金が出る35歳で会社を辞めて、ベルギーで2人でアジア雑貨の店をしたいねと準備をしていましたが、退職直後に夫と様々な問題が生じ、そのままあれよあれよと言う間に離婚となりました。

ただそこでどうしてもヨーロッパにまた住むことを諦められず、一生に一度は住んでみたかったパリに住んで、ブラブラして1年と少しを過ごしました。心が傷ついたままで、もっと傷つくことも沢山起こり、今思い出してもとても不毛な時期でした。それでも混沌としたパリの街が、私を癒してくれました。

仙台が大転換期

日本に戻ってしばらくコールセンターでバイトをしたり、フランス語教室の事務をしながら急にパン屋になりたいと思い立ち、パン屋さんでバイトをしたりしていましたが、パン屋の社長に「俺らは命懸けでパンを焼いてるんやから中途半端な想いで関わるな!」と叱られ、自分には向いていないことを悟ります。

人生このままではダメだと思い、就活をし、ベルギー時代にファンになった北欧の家具メーカーで、そこから9年間働くことになりました。昔からインテリアや雑貨が好きだったのと、とても風通しの良い会社で、日本で店舗展開を始めたその頃は活気があり、やりたいことを沢山させてもらい、毎日が楽しくてしょうがなかったです。

そんな中東日本大震災が起こり、復興支援プロジェクトと復興支援ストアの責任者として仙台に赴任し、そこで人生が大きく変化しました。

初めて20余人をマネジメントし店舗を経営するポジションに就き、将来に備えて、震災を機会に仙台にできたビジネススクールに通うことに。そこで地域のために人生をかけている沢山の起業家に出会いました。同時に、自分の勤める会社は成熟期に入り、若い人たちを登用しコストを抑えるフェーズに入ってきて、自分自身の先行きが怪しくなってきました。

さらに、すでに寝たきりだった父親とは別に新たに家族が病に倒れ、仙台と東京を行き来しながら、ビジネススクールにも通っていました。冷静に考えたら信じがたいですが、復興支援の店舗から本店舗の立ち上げへの移行も同時並行で進めており、自分の限界を越えていました。

そんな中、仕事で大きな問題が起こってしまい、自分で全責任を負うことになり、就けるポジションがなくなる事態に陥ってしまったのです。ものすごいストレスがかかっていたのか、ある日突然涙が止まらなくなり、鬱と診断され3ヶ月の休職を経て大好きだった会社を退職するに至りました。これは自分にとっては離婚に次ぐ、人生最大の危機的な出来事でした。

畑と英語と自分に向き合う暮らし

退職後は、地方創生系のベンチャー企業に転職しました。そこでも立ち上げの仕事をして、激務でした。

そんな時ふと、私は1人で畑を耕していたい、と思ったんです。

父親の実家にはいくつかの段々畑がありましたが、ずっとそこで野菜を育てていた叔父が亡くなり、荒れ放題となっていました。仕事柄、全国の地方創生をしている人たちやプロジェクトと多く接していたので、そこでゲストハウスと畑を掛け合わせて何かできないかなと考えるようになりました。それまでは、都会でいかに稼いでいかに使うかという感じの生き方だったのが、年齢に伴う気力体力の衰えも相まって、自分の有形無形のアセットをどう活用してサバイバルするか、とマインドが変化してきたのです。あんなに都会が好きだったのに、気がついたら田舎に住みたいと思うようになっていました。

ゲストハウス構想は、家を商業利用するのを躊躇する家族の反対にあってペンディングとなり、関西でのアラフィフの再就職活動はとても厳しかったため、大阪市内で英語学童の仕事に就いたのちに、自分で教室を主宰することになりました。1年目は生徒が5人しかおらず、地元の小学校の学童や他の英語スクールでのバイト・翻訳仕事などで食い繋いでいましたが、3年目からやっと何とか食べていけるようになりました。
その間、畑は月2回位しか行けないときもありましたが、何とか畑を続けて今に至ります。

草刈りをして種を蒔いて、ふと見上げると山が見える。。。四季折々にいろいろな花が咲き、いろいろな虫さんたちがうごめき、野菜を育ててくれています。心揺さぶられる出来事があっても、いつもここに戻り、深呼吸をして心を落ち着かせています。私にとって畑は、決して食べるものを育てるだけの場所じゃなく、自分と向き合うための特別な場所になっています。


昨年の10月に20年難病を患った父が亡くなりました。無口だった父に、ここをどうして欲しいのか生前にしっかりと確認できていなかったことに悔いはありますが、ここを耕し続けることが親孝行かなあと思っています。


父に与えてもらった最大のことは「教育」だったので、初心に戻り、また改めてカウンセリングの勉強を始めました。ここが将来、過去の自分のように、都会で生きることがしんどくなってしまった人たちの癒しの場所になればいいなあと願っています。とはいえ、昔の人のように、朝日と共に起きて畑を耕し、夕陽が沈むと共に就寝し、ある日ぽっくり逝くという暮らしができれば十分幸せですね。

大切にしていること

フレキシブルで広い心を持つ 振り返るといつも自分のエゴを主張しすぎて、失敗してきました。自分を認めてほしいという欲求は何かを成し遂げる原動力になり得ますが、それがつまらないこだわりとなって意固地になってしまったり、それが結果として足を引っ張ってしまうことも多々ありました。なので「自分が良いと思うことは、人にとっても良いことかはわからない」「そのこだわり必要?」といつも自分に問いかけて、エゴを抑えつつ、いかにフレキシブルで広い心持で平和で穏やかに過ごすかというのが、自分の人生最大のテーマです。

みんなが幸せに暮らすために私ができることをする 小さい頃から親が怖くていつも顔色を見ながら過ごしていた記憶が大きく、いつもメランコリーな感じで悩んでおり、生きるのが楽しいと思えたことがあまりありませんでしたが、今は「足るを知り」「エゴを抑え」「今日感謝できることを数える」を意識することで、最後までがんばって生きられると感じています。そして身近な子どもたちが、現在、そして未来も幸せと思いながら暮らせるように、英語と心を鍛えて欲しいと願い、それを引き続き教えていきたいです。農ある暮らしはその一環でもあります。

お気に入り

ピンクのもの いつの頃からか、ピンクが大好きになっていて、仙台時代の職場ではピンクブルドーザーとも呼ばれたほど(ボロボロといろいろなものを落としていきながらズンズン前に進むかんじ)。最後の職場で、部下たちからもらったピンクアイテムは大事にしています。

パン屋さん「ブーランジェリー・タカギ」 パリから戻って「パン屋になりたい」と思ってバイトを始めて、社長に「舐めんなよ」と叱られた大阪・肥後橋のパン屋さん。代が変わっても、別の支店でも味が変わらないという継続性がすごい。ちなみに社長は今は引退されて畑を耕し、波乗り三昧だそうです。 https://tabelog.com/osaka/A2701/A270102/27002376/

北浜ポート焙煎所 Uターンをした時にカフェをやりたいと思ったこともあり、紹介してもらった焙煎所。それ以来、豆を買って自分で飲むだけではなく、金剛山登山口のカフェ「もぐらの寝床」で不定期に出店し、お客様に珈琲を淹れています。英語教室に生徒が来なくなった時のひとつのサバイバル手段として密かに目論見中。店主の高橋さんはカフェの創業もプロデュースしてくれます。 北浜ポート焙煎所HP

すてきなあの人

菅原由紀代さん 大阪唯一の村、千早赤阪村で「日本一かわいい道の駅」を運営しながら、若い人たちをどんどん巻き込んで地域を盛り上げている女性。若い人たちの移住が増え、素敵なお店もたくさん出来て、素敵な地域になっています。 道の駅ちはやあかさか
もぐらの寝床

お知らせ

きらめき農業塾 農業研修をさせていただいた富田林市の若手農家さんが中心になって、新規就農希望者を支援する農業塾を立ち上げられました。 きらめき農業塾

マインドフルネスストレス低減法 穏やかに暮らしていくためのひとつの方法として、マインドフルネスを取り入れています。 https://www.mbsr-study-group.com/